【社会】「世間から貼られたレッテルは“ゴミの島”」島民たちの生活をメチャクチャにした史上最悪の不法投棄「豊島事件」はなぜ起きた?
【社会】「世間から貼られたレッテルは“ゴミの島”」島民たちの生活をメチャクチャにした史上最悪の不法投棄「豊島事件」はなぜ起きた?
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香川県の豊島が、世間から貼られたレッテルは「ゴミの島」……。 青い海、白い砂浜は汚染され、地元民たちは健康や風評被害に苦しめられた日本史上最悪の不法投棄事件とはいったい? 風来堂編著『ルポ 日本異界地図』(清談社Publico)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)
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史上最悪の不法投棄事件
波が穏やかで風光明媚な瀬戸内海の東部、小豆島から西に3.7kmの海上に浮かぶ「豊島」。面積14.5平方m、人口780人ほどの小さな島だ。温暖な気候と青い海、白い砂浜、緑豊かな草木に恵まれ、古くから農業や漁業、酪農が盛んな「豊かな島」として栄えてきた。
この美しき島が悲劇に見舞われたのは1970年代のこと。通称「豊島事件」と呼ばれる、日本史上でも類を見ないであろうほどの不法投棄事件が起こったのだ。
この事件は1965(昭和40)年ごろから島西端に位置する水ヶ浦と呼ばれる海岸で、この土地を所有する豊島総合観光開発株式会社(以下、豊島開発)によって土壌が削られ、大量の土砂が島外に持ち出されたことから始まる。土砂に含まれるガラス原料である珪砂などは高度経済成長期であった当時、需要が高く、その売買が目的だった。
豊島開発は、やがて土壌を掘り尽くすと、今度は跡地に有害産業廃棄物処理場を計画。全国の工業地帯などで出た危険な廃棄物を引き取り、この海岸で処理しようというものだ。当然、住民たちは猛反対。香川県庁へのデモ行進、また豊島開発および当時の代表取締役を被告とした廃棄物処理場の建設差し止めを求める民事訴訟を高松地裁に提起するなどして反対運動を展開していった。
こうした動きを受けて豊島開発は申請にかかわる事業内容を「ミミズ養殖による土壌改良剤化処分業」へと変更。当時の香川県知事・前川忠夫は反対する住民に対して「これでは事業者いじめだ。豊島の海は青く、空気はきれいだが、住民の心は灰色だ」と非難し、1978年(昭和53)2月に産業廃棄物処理業の許可を行った。
もちろん、住民が「ミミズ養殖による土壌改良剤化処分業」ではないことに気づくまでに、そう時間はかからなかった。豊島開発は申請に関する事業内容を偽って県から許可を受けたあと、各地から安い値段で産業廃棄物を引き受け、フェリーなどを使って大量に島へと持ち込んだ。
喘息などの健康被害が相次ぐ
20万平方mを超える広大な敷地内では自動車の破砕クズや汚泥などの有害廃棄物に、かさを減らすべく廃油をかけて焼却する「野焼き」が連日にわたって行われ、島には黒煙と鼻を突き刺すような悪臭が立ち込めた。住民はマスクの着用を余儀なくされ、目の痛み、さらには喘息などの健康被害も相次いだ。
この間にも住民は操業停止を訴え続けたが、県によると「立ち入り検査を行っていたが、廃棄物の認定を誤り、豊島開発に対する適切な指導監督を怠った」とのことだが、豊島開発の違法行為は事実上、黙認されていたというのが実際のところであろう。こうして、悪質きわまりない不法投棄は実に13年も続くことになる。
絶望的な状況に光が差し込み始めたのは1990(平成2)年のこと。兵庫県警が廃棄物処理法違反の容疑で豊島開発を摘発し、処理場を強制捜査。翌1991(平成3)年1月に経営者は逮捕された。
島に運び込まれていた産業廃棄物は実に90万tを超え、40mもの高さまで積み上げられた“ゴミの山”がたたずむ異様な光景が広がっていた。あたり一帯の植生は破壊され、化学反応から地中の温度は50度にまで達する箇所も。高濃度のダイオキシンが検出され、産業廃棄物からにじみ出た真っ黒な水が海岸のあちこちに溜まるなど、史上類を見ない規模で豊島は汚染にさらされていたことが判明したのだ。
事業者が検挙されたことにより、かつての「豊かな島」が取り戻されるかといったら、そうではなかった。豊島事件が全国ニュースになってからは豊島=産廃のイメージが植えつけられた。
世間からは「ゴミの島」のレッテルが貼られ、豊島産の農産物や魚介類は消費者から敬遠された。こうした風評被害から「豊島」とつけば出荷ができず、「ブランドの名前を変更しろ」などと理不尽な対応を余儀なくされた島内の事業者も多い。
そして、最大の問題は90万もの膨大な産業廃棄物がそのまま置き去りにされていたことだ。豊島開発は事実上、廃業している状況下にあったことから、住民は県に対して公害調停を申し立て、いっさいの廃棄物の撤去、そして原状回復を要求。公害調停とは公害紛争処理法に基づき、裁判に代わって当事者双方の互譲による合意に基づいて紛争の解決を図る手続きのことだ。
不法投棄から22年――ようやく手に入れた「謝罪」
一丸となった住民は香川県庁前での150日間にわたる抗議をはじめ、県内全市町村へのメッセージウォーク、東京・銀座での産廃を掲げたデモ、香川県内100カ所座談会などを実施。こうして、2000(平成12)年6月に香川県との和解が成立、当時の香川県知事・真鍋武紀が「産廃の完全撤去と無害化処理」を約束するとして正式に謝罪した。不法投棄が始まってから22年、公害調停の申請から7年が経っていた。
〈“ナゾの歓楽エリア”三重県「売春島」はなぜ消えた?「近年訪れるのは女性や修学旅行生」〉へ続く
(風来堂/Webオリジナル(外部転載))