【ドラマ】NHK大河ドラマを子供に見せてはいけない…明智光秀が本能寺で信長を襲った理由は「私怨」ではない【2023編集部セレクション】
【ドラマ】NHK大河ドラマを子供に見せてはいけない…明智光秀が本能寺で信長を襲った理由は「私怨」ではない【2023編集部セレクション】
■家康が「信長を殺す」と発言する驚愕の展開
「信長を殺す。わしは天下をとる」
NHK大河ドラマ「どうする家康」の第26話「ぶらり富士遊覧」(2023年7月9日放送)のラストシーンで、徳川家康(松本潤)は腹の内をこう言葉にした。第27話「安土城の決闘」(2023年7月16日放送)では、それを実現するために手を尽くす様子が描かれた。
この決心に従うか否かでは、さすがに家臣たちの意見は割れたが、酒井忠次(大森南朋)が家康の決断を信じるように諭し、織田信長(岡田准一)を討つための準備がはじまったのである。
家康が「信長を殺す」と口にし、私は驚いたが、それは家康の心根の描写にとどまるもので、まさかその実現に向けて動き出すとは思わなかった。ところが、家康の指示のもと、謀反の準備がほんとうにはじまったから驚愕した。
■家康が信長を討つ動機は存在しない
ドラマの場面を具体的に記そう。家康は家臣たちにこんな説明をする。信長は上洛するはずだが防備が手薄なはず。すでに服部半蔵(山田孝之)を調査に忍ばせ、伊賀者を集めてある。信長の宿所は本能寺なので、「信長を本能寺で討つ」と。
有力な武将はみな戦いの前線にいる点でも信長を討つ好機で、唯一やっかいなのは、安土城で家康の饗応役を命じられている明智光秀(酒向芳)だが、「ヤツを遠ざける策も考えておる」と家康。
そして家康は言い放った。「わしはもうだれの指図も受けぬ。だれにもわしの大切なものは奪わせはせぬ」。それを受けて、酒井忠次が家臣たちに説いた。「殿はお心が壊れた。信長を討つ。この3年、その一事のみを支えに、かろうじてお心を保ってこられたのだろう。それを奪うのは、殿から生きる意味を奪うのと同じじゃ」
家康が言う「わしの大切なもの」が、有村架純が演じた正室の築山殿(ドラマでは瀬名)と嫡男の信康(細川佳央太)を指すのは明らかで、家康は2人が死んでから3年間、その恨みを晴らすために「信長を討つ」ことだけを支えに心を保ってきたというのだ。
しかし、プレジデントオンラインにも再三書いたが、宿敵の武田に内通していた2人を死なせる決断をしたのは家康であって、信長に命令された結果ではない。定説にしたがうかぎり、家康が信長を討つ動機は存在しないのである。
■光秀のしくじりは家康の工作
だが、定説などお構いなしにドラマは進行する。
安土城で家康は信長の歓待を受けるが、饗応役の光秀が淀の鯉を出すと、家康は何度も臭いを気にする。信長が「臭うならやめとけ。当たったら一大事じゃ」と言うので、光秀が申し開きをすると、信長は激高して膳をひっくり返し、光秀を3回、4回、5回と殴った。
直後、光秀が中国地方の毛利氏を攻めている羽柴秀吉(ムロツヨシ)の援軍に行くことが決まると、家臣が家康に「もくろみどおり明智を遠ざけましたな」と言う。鯉の臭いを気にしたのは家康の策略で、そのために光秀が排除されたという描き方なのだ。
そこに光秀が謝罪に現れ、「上様はしくじりを決してお許しにならぬお方。よくご存じのはず。私はもう終わりました」と、家康に向かって話した。
要は、家康が信長を討つ際に邪魔が入らないように、近在にいて邪魔になりかねない光秀が饗応に失敗するように芝居を打ち、その結果、追い詰められた光秀が本能寺の変を起こして、家康は信長を討つ機会を逸した――。そんなストーリーだったのである。
■信長と家康の本当の関係
最大の問題は、繰り返しになるけれど、家康が妻子の命を奪われたことで、何年にもわたって信長を恨み続けているという設定である。だが、築山殿と信康が死んだ松平信康事件は現在、以下のように考えられている。
徳川が対武田に苦戦し、滅亡もありうる状況下で、築山殿は家臣団とともに武田側に内通し、息子の信康とともに生きる道を探ったが、事前に発覚。それが信長の知るところになると、今度は家臣団に対して多数派工作を画策した――。
これは家康自身にとって痛恨の汚点であり、放置すれば家が分裂しかねないのでやむなく2人を処分したのであり、信長を恨むべき話ではまったくない。そもそも柴裕之氏が言うように、「戦国大名や国衆にとっての優先事項は領国『平和』の維持にこそあった」(『徳川家康』平凡社)。家康の妻子は、その「優先事項」を侵害したのである。
百歩譲って、家康が信長を逆恨みしていたとして、私怨から信長を討とうと考えるとは到底思えない。家康は信長と同盟を組み、事実上の臣下であったからこそ、宿敵の武田を滅ぼし、あらたに駿河を領国にできた。家康にとって「領国『平和』」は信長のおかげで維持されていたと言っていい。
対武田の防波堤だった家康は、武田の滅亡後は信長にとって用済みになった――という主張もあるが、受け入れられない。関東や北陸、東北には北条や上杉をはじめ有力大名がいまだひしめき、信長は家康の力を依然として必要とした。
つまり、家康が信長を討つ動機は、どこにも見当たらないのである。
■なぜ光秀は本能寺の変を起こしたのか
一方、光秀には動機があった。
ちなみに、ドラマで描かれたような饗応役の失敗は、事実とは思われない。江戸時代に書かれ、内容に信がおけないとされている『川角太閤記』には、光秀が家康一行のために準備した生魚の悪臭が漂い、信長が激怒したという逸話がある。
しかし、光秀が饗応に失敗したという話は信頼できる史料には一切書かれておらず、『川角太閤記』への記載はかなり以前から、俗説として退けられている。
現在、光秀が本能寺の変を起こした動機として、ほぼまちがいないと考えられているのが四国説である。
じつは本能寺の変が発生した直後から、主な公家や織田家の家臣たちが、原因は信長の四国政策の変更だと見ていた(『晴豊公記』『言経卿記』など)。
■「四国政策」の失敗
信長は当初、大坂本願寺と組む阿波(徳島県)三好家を攻略するため、土佐(高知県)を治める長宗我部元親との関係を強化。その取次役が光秀だった。
ところが、大坂本願寺との戦いが終わった天正8年(1580)に信長は、四国の平定は元親に任せると言っていたのに一転、元親の支配地域を土佐と阿波の南半分に限定すると言い出した。
これに元親が難色を示すと、信長は天正9年(1581)11月、阿波三好家出身の三好康長に、東四国の支配を任せることにする。そして同10年(1582)1月、元親には土佐1国だけを治めさせる方針を、光秀を通じて提示。しかし、元親から返答がないので光秀は、滅亡を避けるためにも信長の判断に従うようにと最後の説得を試みたが、元親の返答を待たずに、信長は三男の信孝を総大将とする四国出兵を命令。本能寺の変の翌日に当たる6月3日、四国に渡ることになっていた。
本能寺の変については、江戸時代に俗説が流行し、儒教の影響もあって、暴虐な信長に対する光秀の怨恨(えんこん)説が唱えられたが、じつは四国説は大正時代から主張されていた。
近年、桐野作人氏や谷口克広氏らが、一次資料にもとづく研究で四国説を強化していたが、2014年に『石谷家文書』(室町幕府奉公衆だった石谷光政・頼辰親子2代にわたる文書群)が公表され、光秀が信長の前で、元親をあしざまにののしる人物と論争していたこともわかった。
〈熊田千尋氏は「本能寺の変の再検証:先行研究の成果と『石谷家文書』から判明した史実の結合」(京都産業大学日本文化研究所紀要第25号、2020年3月)で、元親をののしったのが堺代官の松井友閑だったことを明らかにした〉
光秀は四国政策で敗北し、織田政権内における明智家の立場に強い不安を抱いておかしくない状況にあったのである。
■あまりにもずさんな情報管理
さらには、ドラマで描かれた家康の「信長を討つ」計画が、あまりにずさんだった。
謀反を起こすなら、計画が事前に漏洩しないことがなによりも大切である。だから光秀の場合、事前に相談した相手は、明智秀満、明智光忠、藤田行政、齋藤利三、溝尾茂朝にかぎられ、はじめて打ち明けたのも、前日の天正10年(1582)6月1日だったとされる(『信長公記』『当代記』など)。
ところが、ドラマの家康は、安土に赴く5月11日以前に、家臣たちを前にして「信長を殺す」と決意を打ち明け、それ以前から服部半蔵や多数の伊賀者を動員し、本能寺周辺を偵察させていた。さらには京都の豪商、茶屋四郎次郎(中村勘九郎)の屋敷を、偵察のための拠点と使っている。
どれだけぬるい情報管理なのだろう。これでは決行のはるか以前に情報が洩れ、家康は窮地に陥るだろう。慎重な家康がこんなずさんな計画に手を染めるはずがない。
■子供には見せられない大河ドラマ
また、ドラマでは、家康は信長を討つことだけを考え、嫡男の信忠には言及しない。しかし、信長に対するクーデターは、信忠も一緒に殺さなければ意味をなさない。すでに信忠は家督を譲られ、対武田の最終戦も信忠が仕切るなど、織田家の当主としてすでに認められた存在だったからである。
その信忠は当初、5月28日からの家康の堺見物に同行する予定だったが、信長が29日に上洛するという連絡を27日に受け、急遽、予定を変更して京都に入り、本能寺からの距離が600メートルほどの妙覚寺を宿所にした。しかも、手勢は500名程度だったという。
したがって、光秀がクーデターの決行を決めたのは、信長父子の護衛が手薄で、確実に殺害できそうなメドが立った5月27日以降だと思われる。まさにここしかない一瞬の隙を突いたのである。ドラマの家康のように、信忠には目もくれず、あらかじめ大勢の人を巻き込んで準備を進めるなど、ナンセンス極まりない。
最近、「大河ドラマを子供には見せられない」という話をよく聞く。歴史への誤解を植えつけられてしまうからである。事実、「どうする家康」は「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」のような痛快時代劇だと割り切って見ないと危険なシロモノになってしまった。
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歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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