【芸能】 平和の尊さ語るのは「義務」 戦後80年 黒柳徹子さん
【芸能】 平和の尊さ語るのは「義務」 戦後80年 黒柳徹子さん
平和の尊さ語るのは「義務」 戦後80年 黒柳徹子さん – nhk.or.jp 平和の尊さ語るのは「義務」 戦後80年 黒柳徹子さん nhk.or.jp (出典:nhk.or.jp) |
1 湛然 ★ :2025/07/15(火) 06:23:34.58 ID:hIqqtt1S9
2025年7月10日 19時54分 NHK (社会部記者 須田唯嗣)(※抜粋)
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20250710/k10014858901000.html

(出典 www3.nhk.or.jp)
■鮮明に残る戦争の記憶
黒柳さんは、東京・乃木坂で生まれました。
幼少期、日本はすでに日中戦争(1937年〜)に踏み出していました。
本人はその当時の記憶として、1人の若い兵士の姿について語り始めました。
「まだ配給券みたいなものがあると食べ物をもらえる時代、私は母とピアノのお稽古の帰りに、渋谷の食堂みたいなところで何かを食べていたんです。そうしたら若い兵隊さんと相席になった。その人がとても若い兵隊さんだったんですけど、私のことを見てニコニコしていてね。その人が帰ろうとした時に、母に『これどうぞ』と言って、配給券みたいなものをくださったの。私は『わあ、いい人だ、うれしいな』と思いましたけど、今考えると、あの人はこれから戦争に行く人だったかもしれない。私を見て何を考えたんだろう、妹のことを考えたのか、誰のことを考えたのか分からないですけれど、そういう若い人たちが戦争に出かけていったんだと思うとね、今でもちょっと胸がふさがるような感じがします」
1941年に太平洋戦争に突入した日本。黒柳さんは1945年3月の東京大空襲を体験し、その後、青森県に疎開しました。
終戦時は12歳でしたが、空襲の恐怖と飢えに耐えながら過ごした日々を、今も鮮明に覚えているといいます。
「戦争がひどくなると、夜に必ず空襲警報が鳴って、庭の防空ごうに入るんです。ドカンという音がしている間はずっとその中にいて。東京大空襲の時は、空が真っ赤になったのを今でもはっきり覚えています。私ランドセルから本を出してみたら読めたんですよ。夜なのに庭で」
「いつもおなかがすいていて、やっぱり食べ物が悪いと寒いんですよね。それから、『学校に行っている間に家が焼けちゃって、家に帰っても親が*でいていないかもしれない』という不安が毎日ありました。帰り道に家を見渡せるところに来ると、『ああ、焼けてないな』と思って、家に走って帰って親がいると『ああ、よかった』って思う。毎日そういう生活でした」
■平和の尊さの発信は「義務」「たまに」の工夫
黒柳さんはこうした個人の戦争体験について、大ベストセラーとなった『窓ぎわのトットちゃん』はもちろん、出演したテレビ番組、さらに最近はYouTubeなどでも繰り返し語ってきました。
こうした戦争と平和についての発信を長きにわたって続ける背景には、どんな思いがあったのでしょうか。
黒柳さんが口にしたのは「義務」という意外なことばでした。
「私の場合は(戦争体験について)話した方がいいだろうという年代でもあります。子どもたちにこういう思いはさせたくないという感じが強いですよね。ユニセフの親善大使をやっているといろんな国に行きますよね。子どもたちが本当にひどい目に遭っているのをみて本当につらいです」
「テレビに出てよく知っている人がそういう目に遭ったということを皆様が知ってくだされば、意味があると思って。やっぱり義務だと思いますよね。ハリー・ベラフォンテさん(※注)と、この話をしたことがあるんですよ。著名人っていうと変ですけどね、偶然のことからこういうふうに仕事をするようになった人間とすれば、やっぱりこういう自分のポジションを利用して、それをいいことに使う。平和がいいとか、戦争は恐ろしいとか、そういうことはやっぱりそういう人が伝えていく必要があると思います」
(注※「バナナ・ボート」などが日本でも大ヒットしたアメリカの伝説的な歌手)
自身が当時担当していた歌番組でも、折に触れて戦争や差別の問題などを語ってきたという黒柳さん。
ただ、その発信には“黒柳さん流”の工夫があったと明かしてくれました。
「しょっちゅう言わないで、たまにちょっと言うっていうのがわりと大事だって私は思っているんですよね。みんなが、子どもが見ている大きい番組で、差別するのはよくないとか、平和であることがどんなにいいかとか、痛みとはどういうものかっていうようなことを、折に触れて言う。しょっちゅう言うと、子どもは『あのおばさん、うるさいよ』って言われるから、たまにちょっと言う。あとの時は、わりとおもしろいこと言っているなんていうふうにして、間間(あいだあいだ)にちょっと言うっていうのをだんだん覚えてきました」