【音楽】ミスチル、小室、ビーイング、SMAP覚醒から桑田vs長渕のケンカまで… Jポップは1994年に「絶頂」を極めた
【音楽】ミスチル、小室、ビーイング、SMAP覚醒から桑田vs長渕のケンカまで… Jポップは1994年に「絶頂」を極めた
1 冬月記者 ★ :2024/02/18(日) 00:21:06.22 ID:SbtMTQoT9
今から30年前、1994年の日本レコード大賞は、Mr.Childrenの「innocent world」が受賞した。
彼らが次作「Tomorrow never knows」のMV撮影のため授賞式を欠席したことで、レコ大にとっては黒歴史になってしまったが、評価としては至極真っ当だった。
「innocent world」はオリコンシングルセールスランキングにおいて、この年度の1位作品であり、Jポップが絶頂を極めたこの年を象徴するものでもあったからだ。
なぜ、この年、Jポップが絶頂を極めたといえるのか。それはこの記事が進むうちに、わかっていただけるだろう。
ミスチルは前作「CROSS ROAD」でブレイク。桜井和寿がこれを書き上げたとき、「遂に100万枚セールスする曲が出来た!」と叫んだというエピソードもある作品だ。
実際、この予言は的中。そこから96年の「花 -Mémento-Mori-」まで、ミスチルは8作連続でミリオンセラーのシングルを出し続けた。
桜井が「100万枚」にこだわったのは、当時、大ヒットの基準がそれだったからでもある。
バブル景気は90年に崩壊したとはいえ、すぐに打撃を受けたのは銀行や商社、ゼネコン、不動産の関係者。日本人の多くはまだまだ裕福で、気持ちも浮かれ気味だった。おかげで90年代の音楽シーンは、CDバブルとでもいうべき状況となったのだ。
桜井のほかにも、この年、ミリオンセラーを初体験した大物がいる。小室哲哉だ。
年間3位となった「恋しさと せつなさと 心強さと」(篠原涼子 with t.komuro)をはじめ、計3作のミリオンを達成(残り2作は、trf)。ここから小室ブームが始まり、翌年からは小室プロデュース作品がレコ大を4連覇することになる。
なお、オリコンのデータでは、84年から89年まで、ミリオンセラーは途絶えていた。90年に久々の100万枚超えを果たしたのが「おどるポンポコリン」(B.B.クィーンズ)。いわゆるビーイング系のユニットだ。
ビーイングはCDバブルの火付け役でもあり、翌年以降、B’zや大黒摩季、ZARD、WANDS、DEENなどでミリオンセラーを量産していく。94年もその勢いは健在で、4作で百万枚超えを達成。ミスチル、小室、ビーイングだけで9作のミリオンが生まれたこの年は、トータル18作というミリオンラッシュとなった。
ちなみに、翌年と翌々年の作品数はこれをさらに上回るわけだが、筆者が94年こそJポップの絶頂期と見るのは、達成したアーティストの顔ぶれにバランスのよさを感じるからだ。
広瀬香美や福山雅治といった当時の若手がいる一方で、中山美穂や藤井フミヤのような80年代アイドルも健闘している。また、藤谷美和子・大内義昭によるデュエットソング「愛が生まれた日」も100万枚超え。作詞は秋元康だ。
さらに、松任谷由実、中島みゆき、CHAGE&ASKAといった70年代から活躍する人たちも健在ぶりを示した。これはJポップが誕生した経緯を考えても、なかなか興味深い。
というのも、70年代にフォークやロック、ニューミュージック、シティポップなどと呼ばれていたものが「新時代の歌謡曲」としてひとまとめに進化(? )したのがJポップだとするなら、ユーミンやみゆき、チャゲアスはまさにその流れを象徴する人たちだからだ。
この人たちは80年代、松田聖子や柏原芳恵、光GENJIといったアイドルへの作品提供でも結果を残した。いわば、アイドルという実験場において、歌謡曲的なヒット手法を学んだことが90年代でのさらなる成功につながるわけだ。
また、このようなジャンルを超えた異種交配のようなコラボが繰り返されるうち、細かいジャンル分けは無意味化していった。その結果「Jポップ」という大ざっぱだが便利な呼び方が生まれ、定着していくのである。
続きはリンク先
https://news.yahoo.co.jp/articles/0ab8a21cf257fbe6097140ec29a3c3206f674f05?page=1