【蒙古襲来750年】 モンゴル出身の横綱・照ノ富士らが供養に訪れた寺、元の使者斬首の悲劇
【蒙古襲来750年】 モンゴル出身の横綱・照ノ富士らが供養に訪れた寺、元の使者斬首の悲劇
およそ750年前、日本と元が対立する中で、元の使者5人が鎌倉幕府の手で問答無用とばかりに斬首される悲劇が起きた。
非戦闘員の外交使節が犠牲になったことに日蓮は心を痛めた。
5人を悼む心は今も日本とモンゴル両国の間で引き継がれ、モンゴル出身の力士がたびたび、ある寺を供養に訪れている。
ー中略ー
・禁じ手
事件が起きたのは、元が初めて日本に侵攻してきた「文永の役」の翌1275年のことだ。蒙古人の杜世忠を代表とし、副使や書状官、
通訳官らから成る5人の使節団は、長門国(現在の山口県)に到着すると、鎌倉に送られてしまい、
龍ノ口処刑場(現在の神奈川県藤沢市)で斬首された。
戦後間もない使者派遣の意図について、歴史家の間では、元は「2度目の侵攻もあるぞ」と威嚇しに来たのではとの見方がある半面、
「征服ありきではなかった」(※1)との説も存在する。いずれにせよ言えるのは、当時の執権・北条時宗が率いる鎌倉幕府は、
5人が携えたメッセージを握りつぶして斬ったということだ。4年後にも別の使者を殺害している。
侵攻を受けて、犠牲者を数多く出した幕府としては、「元と戦う立場を明らかにする必要があったかもしれない」
(鎌倉歴史文化交流館の大澤泉学芸員)。だが、敵国から送られて来たとは言え、使者を殺害するのは許されない禁じ手だ。
大澤氏は、当時の元が再び攻めてくるのは既定路線だった可能性を指摘しつつも、
「使者を斬首されたことで元が受けた衝撃は大きかったと推測される。結果的に選択肢として妥協の余地がなくなったのではないか」
と言う。事件から6年後、元は「文永の役」よりも、はるかに大規模な軍勢で攻めてきた。「弘安の役」である。
・「科(とが)なき蒙古の使い」と日蓮
当時、龍ノ口で処刑された罪人の亡きがらは、川に流されることもあれば、身分の高い者の場合は
近くの「誰姿森(たがすのもり)」に埋葬されていたと言われる。この森に向かって、地元の民は手を合わせて弔うようになり、
回向山利生寺(えこうざんりしょうじ)が創建された。杜世忠ら5人も、この寺に埋葬され、
後の時代に常立寺(日蓮宗)と改められた。
鎌倉幕府による使者斬首に真っ向から異を唱えた数少ない人物が日蓮である。幕府に事あるごとに意見し、処刑されかかったこと
もある宗祖だ。「科(とが)なき蒙古の使の首をはねられ候ける事こそ不憫(ふびん)に候へ」と文書に記した。
境内の句碑には、リーダー格の杜世忠が*間際に詠んだ辞世の句が刻まれている。
「家の門を出る際、妻や子は寒さをしのぐ服を贈ってくれた。出かけて、何日で帰ってくるのか。戻って来た際には、
使節の目的を果たして、恩賞の金の印綬(いんじゅ)を帯びていれば、蘇秦(そしん)の妻(※2)でさえ、
機織りの手を休めて出迎えたであろう」。事態はその真逆であり、無念がうかがえる。
斬首された使節団の中には、南宋人もいた。副使の何文著である。南宋が元の支配下に入ったが故に、
祖国と関係ない戦に巻き込まれる運命にあった。「自分の首がはねられようとしているが、秋風のようなものだ」と詠み、
無常観をにじませた。
5人の墓は、5つの石を積んだ五輪塔となっている。青い布が巻き付けられているが、モンゴルでは青は尊い色と言われる。
かつてモンゴル出身の元横綱・白鵬が訪れた際に、「英雄の証」として、青い布を掛けるように寺に頼んだのだという。
・「敵国人」の供養が許されない時代
ー中略ー
「5人の使者はただのメッセンジャー。国と国の権力者のはざまにあって、まさしく『科なき使』だった」と話す服部住職。
過去の歴史をよく知らないモンゴルの人々も近年、寺の営みに注目してくれていると喜ぶ。
「この寺を知ることによって、国を超えて人の死を悼む思いで共感できる場になっているのは誇らしいし、報われる思いだ」
全文はソースから
4/12(金) 18:56配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/c7af2af46903d909d603468aa5194269e69f5564