【芸能】15歳上プロデューサーと…「強引に頼んで結婚しました」吉永小百合(当時28)電撃婚の背景にあった“深い悩み”
【芸能】15歳上プロデューサーと…「強引に頼んで結婚しました」吉永小百合(当時28)電撃婚の背景にあった“深い悩み”
〈当時18歳の吉永小百合に魅了された“大物作家”とは?「ロケ現場まで追っかけてきちゃった」「2人がずっと話し続け撮影ができず…」〉から続く
きょう3月13日、吉永小百合が80歳の誕生日を迎えた。わずか11歳で芸能の世界へ飛び込み、日本を代表する名優となった吉永。その半生を振り返る。(全3回の2回目/つづきを読む)
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小学校の卒業文集で「将来の夢は映画俳優」
吉永小百合は1956年、11歳でラジオ東京(現・TBSラジオ)のドラマ『赤胴鈴之助』のオーディションを受けて翌年より出演した。その役どころは幕末の剣豪・千葉周作の娘で、奇しくも「さゆり」と名前が同じだった。好評のため放送は延び、約2年続く。収録で局に行くと、ときどき映画スターを見かけることがあり、憧れたという。
小学校の卒業文集では、将来の夢は映画俳優と書いた。その夢は早くも中学2年生にして実現する。松竹の『朝を呼ぶ口笛』(1959年)で映画デビューしたのだ。しかし、それからというものラジオやテレビを中心に仕事が忙しくなり、学校には満足に通えなくなる。彼女としては高校に進んだらちゃんと授業に出て、卒業した時点で改めて進路を決めたかったという(吉永小百合『私が愛した映画たち』立花珠樹取材・構成、集英社新書、2018年)。
高校生で映画賞を総なめに
だが、吉永の家は、彼女の幼い頃に父親が事業で失敗してからというものずっと貧しかった。都立駒場高校の入試に合格した直後、母に自分の思いをそれとなく話すと、「高校へ毎日行きたいのはわかるけれど、学費ぐらいは稼いでくれないと……」と言われてしまう。ちょうどそのころ、親戚や父の知り合いのいる東映と日活の双方から専属の話が持ち上がっていた。当時、映画会社は各社が専属のスターを擁し、それを看板に映画を次々と制作してしのぎを削っていた。
結局、親に促されるがまま、家から通えるとの理由で日活と専属契約を結ぶ。同時期に入った駒場高校の1年先輩には、のちに歌手となる加藤登紀子がおり、放送研究会で部長をしていた。校内放送で流れる加藤の声に惹かれて入部したものの、あまりに仕事が忙しくて授業さえ満足に出られず、勉強についていけないので1年の3学期で私立の高校に転校せざるをえなかった。
吉永の初期の代表作である『キューポラのある街』は、高校2年生だった1961年、新人監督の浦山桐郎によって撮影された。翌年4月に公開されると、その演技が高く評価され、映画賞も数多く受賞し、彼女はスターの地位を確立する。同年には『いつでも夢を』で歌手の橋幸夫と共演、デュエットした同名の主題歌は日本レコード大賞を受賞した。
自由のない生活に覚えた葛藤
だが、スターとして脚光を浴びる一方で、あいかわらず自由のない生活に彼女は葛藤を覚えていた。転校先の高校でも結局、授業日数が足りず、卒業資格は得られなかった。「推選校友」という名目で出席した卒業式にはマスコミが押し寄せ、容赦なくカメラを向けた。その日、1963年3月19日の日記に、彼女はこんなふうに思いをぶつけている。
〈《一人の少女として卒業したかった。(中略)でも、それは遠い夢なのかもしれない。私の席のすぐ横の扉がひっきりなしに開く、そして多勢の人達と靴音とざわめき…。“仰げば尊し”と歌うその顔に、ライトが、フラッシュが光る、それでも私の神経はいらだってはいけないのだろうか。/いつも笑顔を見せなければ人気が落ちるのかしら。そんな人気だったら早く落ちてしまえばよい――。そんな思いが私の頭をかすめてゆく。母と口論した。こらえていた思いが涙になってほほを伝わってゆく》(吉永小百合『こころの日記』講談社、1969年)〉
早稲田大学に入学、卒論のテーマは…
せめてもの抵抗として吉永が選んだのは大学進学だった。ちょうど翌1964年には日活に労働組合ができ、組合の規定で撮影終了が原則として午後3時と決まったことも追い風となった。これなら夜間の大学に行けると、親や会社から反対されながらも大学入学資格検定試験を受け、2度目の挑戦で合格すると早稲田大学を受験、こちらもパスして第二文学部西洋史学専修に入学する。吉永小百合、20歳になったばかりの春だった。
授業へは多忙のなか頑張って出席を続けた。4年後には卒業論文を、一旦はあきらめかけながらも同級生の友人たちの応援もあり、アイスキュロス作のギリシャ悲劇『縛られたプロメテウス』をテーマに書き上げて提出した。その参考資料としてどうしても読みたい洋書があり、国内では手に入らないので、アメリカまでわざわざ手紙を書いて注文したという。そこまで力を入れた卒論を含め、きわめて優秀な成績で卒業した。
過労で声が出なくなったことも
じつは大学に入ったとき、教職を取ろうとひそかに考えていたが、それにはたくさん授業をとらねばならず、断念したという。俳優とは別の道を考えたのは、20代に入っても大人の表現力を持った俳優になかなかなれず、壁にぶつかっていたからだった。
もがきながらも、このときには父が彼女をマネジメントする事務所を設立しており、そのスタッフたちのためにも働かなくてはならなかった。20代も後半となった頃には映画業界は斜陽を迎え、代わってテレビドラマの仕事が増えていた。1972年には同時期にテレビの時代劇とホームドラマを掛け持ちし、撮影のため京都と東京を往復するうち、体調を崩して声が出なくなってしまう。当初は原因がわからなかったが、何人かの医者に診てもらって、過労とストレスによるものとわかった。
だが、両親には言い出せず、満足に声が出せないまま仕事を続けざるをえなかった。ようやく「もっと人間らしい生活をしないと、私はダメになる」と苦しみを打ち明けたのは、親ではなく、ある年上の男性だった。
彼は「一生懸命やれば、見る人はきっとその思いをわかってくれる。だからそんなに悲観しないでやりなさい」と言ってくれた。これに彼女は励まされ、その男性と結婚したいと勝手に思うようになったという(NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」制作班・築山卓観『吉永小百合 私の生き方』講談社、2020年)。
15歳上のテレビプロデューサーと結婚
その男性とは、当時フジテレビのドラマプロデューサーだった岡田太郎である。吉永は19歳のとき、ドキュメンタリー番組の撮影でヨーロッパに行った際、ディレクターとして同行した岡田と出会い、その後、彼の演出するドラマに2作ほど出ていた。
1973年8月、28歳になっていた吉永は岡田と結婚する。彼女はのちに《あの時、結婚して姓を変えることが、私にとっての革命だったんですよ。それをしなければ、自分はもう、人間としてだめになるっていう感じだったんで。絶対に違う名前にならなければだめだと思って、強引に夫に頼んで結婚しました。そういう時は誰に何を言われても、頑固になってしまうんです》と顧みている(『婦人公論』1998年11月7日号)。
岡田は15歳上、しかも離婚経験があっただけに世間は大騒ぎとなった。披露宴こそホテルで大々的に行ったが、それに先立ち同日に挙げた結婚式は、岡田の同僚の千秋与四夫と歌手の畠山みどり夫妻の自宅で、岡田が同夫妻、吉永が信頼する先輩俳優・奈良岡朋子をそれぞれ立会人として、それ以外に出席者はいないというささやかなものとなった。
彼女の両親はこの結婚を認めず、式にも披露宴にも出席しなかった。もっとも、吉永の姉が後年明かしたところでは、両親はじつは披露宴に出たがっていたが、心臓の悪かった父がマスコミに囲まれることを慮って子供たちがやめさせた――というのが真相らしい。披露宴の費用もその後、父が払いにホテルまで行ったという(『週刊朝日』1989年9月29日号)。
「絶縁状態だなんてよく書かれましたが…」
吉永と両親との確執はその後もことあるごとにマスコミにとりあげられた。しかし、当の吉永は、《絶縁状態だなんてよく書かれましたが、そんなこと無理ですよ。だって、母が家に来ちゃったりするんですから(笑)。母の年代なら「嫁(か)しては夫に従え」ぐらい言ってもいいところを、まったく逆で、私の夫に向かって「私も娘に会いたいんだから」と言っちゃう人なんですよ》と、両親の死後、笑福亭鶴瓶との対談で語っている(『文藝春秋』2010年2月号)。
これに対し鶴瓶は「親子のことは、他人になんぼ説明したって、肝心のところは伝わりませんよね」と返しているが、まさにそのとおりではないか。吉永の場合は芸能人ゆえあれこれ勘ぐられてしまったものの、色々と事情を抱えながらも付き合いは相変わらず続いているという親子関係はけっして珍しいものではないはずだ。
94歳の夫を見送り「大往生だと思います」
父親が1989年に79歳で亡くなったときには、彼女は夫と葬儀に出席した。母親は2005年、90歳で死去したが、夫の岡田はその翌年、週刊誌の取材に対し、吉永の実家とはすでに和解したと明かしている(『週刊新潮』2006年2月23日号)。
岡田はフジサンケイグループの共同テレビの社長まで務めた一方、50代から大病を患い、吉永が看護してきたという。その事実を知ると、昨年彼が94歳で亡くなったとき、吉永の出したコメントにあった「大往生だと思います」という言葉に、彼女の感慨を思わずにはいられない。
岡田は結婚直前、対談した評論家の上坂冬子から「この際小百合ちゃんには女優をやめさせて、ご飯を炊かせてほしい」と言われたのを受け、《彼女がやめるというなら女優をやめるのはかまわないけど、やっぱり何かして働いている人が好きです。そうでないと、男と女はまともに愛し合えないんじゃないですか》と返している(『婦人公論』1973年5月号)。のろけにも聞こえるが、それは彼の本心であった。
夫の理解のおかげで手に入れた自由
実際、夫の理解のおかげで、吉永は自由を手に入れることができたと、ことあるごとに語っている。結婚して10ヵ月ほど休業し、料理を習うなど家のことに専念したのち、1974年6月にテレビドラマで復帰する。映画への復帰は同年に公開された山田洋次監督の『男はつらいよ』「寅次郎恋やつれ」で、その2年前の同シリーズ「柴又慕情」に続きマドンナ役での出演だった。
続く出演作は、『キューポラのある街』の浦山桐郎監督から熱烈なオファーを受けた『青春の門』(1975年)である。劇中に仲代達矢とのベッドシーンがあり、ことさらに注目された。だが、吉永は脚本を読んだときから役とのギャップを感じており、映画完成後にやはり自分の役ではなかったと再確認して落胆する。このころはどちらかといえばテレビの仕事に傾き、映画への情熱を失いかけていた。それを取り戻すきっかけとなったのが、映画『動乱』(1980年)で高倉健と共演したことだった。
〈高倉健との共演が転機に、衝撃の“愛欲シーン”も経て…「ピリオドを打つつもりだった」吉永小百合(80)が引退を考え直した“きっかけ”〉へ続く
(近藤 正高)
